昭和39年12月16日 夜の御理解



 誰しも思う事ですけれども、折角信心をさせて頂くので御座いますから、神様のおかげを頂いて、愈々末広のおかげを頂きたい。日勝り月勝り年勝り代勝りとこう仰る。末広のおかげを頂きたい、とこう願わん者はありません。ね、ですけれども例えばその末広のおかげをこう頂きましてもです、是は例えば信心がなかっても様々な、財の上にでも人間関係の上にでも、健康でもあると言った様なおかげを頂いておる人もあります。
 ありますけれども、肝心要の所が出来ておりませんから、こうちょっと考えてご覧なさい、あのう末広ですね扇子。扇子のあの要の所がなくなっておったらどうなりますか。ね、こうしとるだけでぐちゃぐちゃですよ。ね、肝心要の所シャンとしとらなければダメです。今朝、朝のご祈念にあのう久保山の奥さん参って見えてから、お届けっていうわけじゃないですけれども。
 先生本当にお互い信心させて頂かなければおられませんていうて、その話されるんですよ。と言うのはあの善導寺の教会の前に青木さんというて、呉服屋さんがあるでしょう。もうここは店は小さい店ですけれども、何軒もある呉服屋さんではここが一番繁昌しているんですね。もう何時もお客さんが絶え間がないという程に繁昌しておると言う事です。所がさぁ年末の愈々忙しいというのにです。
 ご主人がまぁ胃がん、胃がんの何かの疑いでですね、その入院しておられたと。ためにその奥さんもそれに付き添うてお出でらなきゃいけない。仕入れも出来なければ、売る事もできない。もういくら、例えばその店の、例えばその方針と言うか、アイデアが良くてですたい、ね、その商売が繁盛しておっても、金が溜まっておっても、まあもうこの辺の呉服屋では、この店だけだろう、みんな現金仕入れをしなさると。
 と言われるくらいにその、繁昌しておるんですけれども、どうです、そういう肝心要のところが出来ておらんから、互い違いになって、そういう事になるでしょう。ね。財産は出来ても、財産はあってもその財産を受け継ぐ、後の者がかれ、その後継ぐ人がなかったり。ね、健康でなかったり。と言うようにそれではいかに、形の上に置いてはこう末広のこうおかげを頂いておられるようであるけれども、肝心要のところがグラグラしておるから、定まっていないからおかげにならん。ね。
 天地のご信用というものを頂かなければダメです。財産にでも健康にでも。どのような事柄の中んでもです、もう天地が保証してくれとらなければダメ。いわゆる天地の信用を頂く。お道の信心はその天地のご信用を頂くために、信心の稽古をさせて頂くんだと思う。ね、例えばこい、私が頂いておる、なら財産なら財産に、天地の親神様の言わば裏付けというものが、信用というものがあるから、私はおかげ頂いておる。
 これがいよいよ、このまま育っていけば、末広のおかげも頂くであろうと同時に、言わば狂いのない、いよいよ互い違いになるような事のないおかげが約束されると私は思うんです。そこで皆さんその肝心要の、て言うところは何処かと。信心しておればんなら肝心要のところが出来ておるかと言うと、そうではないのです。ね、信心しておってもおかげだけはよう頂いても、そのおかげのために。
 またおかげを落とすと言った様な人があるですもんね。信心を頂いておかげを受けると。受けたおかげが、言わば肝心要が抜けておるようなものだ。信心の肝心要とはどういうところと、皆さん思われます。折角おかげを頂くのでございますからその、肝心要のところをしっかり一つの基礎として、そこを言わば基点として、そして日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげの頂けて行くようなおかげを頂きたいと私は思うですね。
 今朝から、信心のこの味わいと言う事。信心はさせて頂いておっても、味わいを味わいきれない人がある。言うなら甘い辛い苦い酸いいと言った様な、その味わいを味おうてこそです、味わいが分かってこそ、信心も楽しみがあると言うような御理解を頂いたんですけれども。今日私その、あることをお願いさせてまいりよったらですね、おかげ頂いているんですね。末広の。
 ところがその扇子の、肝心要のところが抜けておるところを頂くんです。はぁこれではおかげにならんでしょうこの人は。て私はそう思うたんです。その神様その、肝心要のところはどういうような信心させてもろうたら、肝心要の事になるでしょうか。勿論心であることは間違いないですね、信心に。ね。ですからそのその心がです、どのような状態にならせて頂くと言う事が、おかげを頂く事でありましょうか。
 と言う事をおうかがいさせて頂いたら、今朝頂く御理解の中のですね、甘い酸い辛い苦いと頂いたです。信心には。私は甘いと言う事はどういうことか、と言うとですね、まず信心させて頂くなら、素直にならなければならない、バカほどに。先生が右向けと仰ったら、ハイと右を向けれる素直さ。先生そげん言うたっちゃ、左の方がもうかりますというようなことは言わずに。
 儲かるとか、損するとか、痛い痒いをもう抜きにしてです、神様が右と仰るからハイというその素直さ。いうなら甘いバカほどに、素直に一つならせて頂くと言う事でしょう、肝心要の内容の一つ。まず素直にならにゃいけません。どうしょう皆さん、素直になることに勤めておるでしょうか。とです、素直だけでもいかん。一つ辛いがなからにゃいかん。もうしみじみとして、辛いこともしみじみと辛かと言うでしょう。
 その辛いがなからにゃいかん。そのしみじみとしたものがなからにゃぁいかん。しみじみとして、辛いシャンとしたものがなからにゃいけん。言わば、信心の筋金が通っとらなければいけないと言う事です。苦いと言う事。ね、本当に末広のセンブリを飲むごたる苦い思いがすることがあるでしょう。神様が今こそ心の胃腸を、丈夫にしておって下さる時だと。苦い思いをする。
 苦うございますけれども、おかげで私の心の胃腸が今こそ丈夫になっておりますというような受け方なのです。甘い辛い苦い次には酸いいです。酸いて言う事は皆さんお分かりなるですか。ありゃなかなかあまぎずがきいとる、っち言う様な事言うです、この辺の言葉で。ね、何時も絶えずです。神様が私に何を求めておいでられるだろうかって言う様な事を何時も思うとらにゃいかんです。
 先生は私に、何を求めておいでられるだろう。ね。私がお話をこうさせて頂きよると、どうかこう、つばが引っ付いたように、そのなる時がある。お水ください。久保山先生が昨日の晩でしたか、はぁ今そげん思いよるところでした。いわゆる感が早い。はぁ先生が今水を求めてござるなと、直ぐいっぱいのお水を持っていってあげれるような、言わばその酢がきかにゃいけません。
 ね、神様が何を求めてござるかと。私共に何を求めてござるかと言う事をです、ね、神様が謎をかけなさるです。その謎を、かけござることが分かっておってもです、それを解こうとしない、横着者がおります。はぁ先生あげん思いござるけん、あげん言いござるとばいなと。よけでん言う事は聞かんまい、っち言うごたる。これが横着なんです。実意を欠いとるのです。横着じゃおかげは頂けません。ね、
神様の思いにれんこん食う様な心にならして貰おうから、また神様から私共レンコン食うて貰う事が出来るのです。信心は出来んのだけれども、日頃あれが私の事れんこん食うてくれるから、神様またれんこん食うて下さろうと言った様なおかげになってくるのです。ね、善導寺の青木呉服屋さんじゃないですけれども、それこそこの近所で現金仕入れしておる所は、もうあそこだけだろうと言われる位に繁昌しておる。
 あそこだけ確かに不思議に繁昌しておるです。そりゃ成程勉強もしなさるだろう、アイデアがいいのですよね。もう店はほんとう倉庫の中んごたる感じですもんね、それでも繁昌しておる。所がさぁ繁昌だけではいけないと言う事。ね、主人が死んだらどうします。そのために家内が手を取られたら、もう店は出来んのですから。今日私久保山の奥さんからそのこと聞かせて頂いてです。
 本当に信心のない人達の、例えばさぁ売れた、もう売れたというて繁昌しておるご、ござるごたるけれどもです、ようく思いよると、本当に信心のない人達の生き方というのは、一本橋の上を渡るござるごと、ああですねて言うて話た事でした。いや例えば信心が頂いておってもです、おかげを受けておってもです、ただおかげを頂いておると言うこの、末広にです。
 扇子の言わば肝心要のが抜けておる、のようなおかげでは、日勝り月勝り年勝り代勝りにはならんと言う事。その頂いたおかげがぐちゃぐちゃになってしまうと言う事。ね。そこで、肝心要のところのです。肝心要の信心を、何時も心にかけとかなきゃいけない。果たして私は素直になる、きる事に、言わば、それこそありゃぁちった危なかっじゃなかじゃろうかと言われるくらいにです。
 バカほどに一つ素直になれせて頂く稽古しなきゃならないと、そのよう要素として。肝心要のその内容として、ね、それでいて、信心の筋金がシャーンと、いわゆるしみじみとした信心だと言う事。いわゆるこれを信心辛抱と言う事でしょうね。ただ素直でさえありゃ良かというこっちゃなか。辛抱し抜ねけるしみじみとしたものがなからにゃいけん。信心辛抱ですよ。ね。
 それに苦いです。センブリのような苦い思いをすることがある。苦い思いをする時にです、それを他に持っていかずに、神様がこうして私の心の胃腸を丈夫にしておって下さるんだと、そこにです、いよいよ人間が豊かになっていくです、大きくなっていくです、苦い思いをするからって、苦い顔を直ぐ出しちゃつまらん。今こそ胃が丈夫になって行きよると思うて、お礼が申し上げれるような心もちにならにゃいけん。
 次に言わばあまぎずがきかにゃいかん。ね、たえず先生の目を見とくとか、で言わば神様の心をです、い、私に神様が何を求めてござるだろうか、と言う思いを思うておくとですね、もうたえず神様はです、求めてござることを周囲の様々な事情の中からでも、は神様がこれを求めてござらな今はあれを求めてござるな、と言う事が分かるです。それには耳をふさいでから聞こえんふりしとる。そういう横着なことではね、いわゆる肝心要の物は出来ません。ね、
 だから、その肝心要の、お互いが信心させて頂くならばです、どうでも今私が申しますように、末々繁昌のです、末広がりのおかげを頂きたい。なら頂いても肝心要のところがしっかりしとかんと、けね、けねばダメだと。なら肝心要とは言わば、甘、辛、苦い、酸いいを申しましたように、そういう信心の内容が、要になっとかなければならない、と言う事なんですね。おかげを頂きました。